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【地図的古今浜松】市立高校

やっと全国で外出自粛要請が解除されました。
これで浜松に心置きなく行けると思ったのも束の間、

 県境をまたぐ移動制限は6/19に解除する

という話がニュースになっていました。

コロナ騒動で最大の絶望感に襲われました。
騒動が始まって浜松に行けなくなったときはまだピンと来ていなかったのですが、こう長引くとやっぱりきついですね。

ということで、今回の【地図的古今浜松】シリーズ第4回は市立高校です。
浜松市立の唯一の高校です。

移転履歴は↓
①1901年、元城町に静岡県浜松高等女学校設立
②1904年、松城町馬冷(うまびやし)に移転
③1923年、松城町内に移転
④1947年、広沢町(現在地)に移転
⑤1948年、浜松市立女子商業学校が合併
20200525市立1
市立高校も2校が合併しています。

つづいて沿革です。
まずは赤い矢印の方から。

1901年(M34)、①元城町に静岡県浜松高等女学校が設立されます。
元城幼稚園(浜松幼稚園とも)の跡地にできたようです。
20200525市立2(1899年)
ここにあった期間は3年だけで、ちょうど記載されている地図が見当たりませんでした。
現在の連尺交差点の北西あたりです。
もう少し細かい地図↓
20200525市立3(1895年)
設立から4か月後、静岡県浜松町立浜松高等女学校と改称。

道の向かい側には元城小学校があり、ここが⑤につながります。

3年後の1904年(M37)、②松城町馬冷(うまびやし)に移転します。
20200525市立4(1918年)
現在の開誠館高校の北東側(黄矢印)になります。
移転前の場所の青矢印のところに「幼稚園」と記載があるので、高等女学校は幼稚園跡に設立されたのでは無く、幼稚園の一角を間借りしていた可能性が高そうです。

1911年(M44)、浜松市立浜松高等女学校と改称。

1923年(T12)、③松城町内に移転します。
20200525市立5(1931年)
現在の中部学園の位置です。
ちなみに、ここは浜松城の一部(作佐曲輪)でした。

1945年(S20)、戦災により全焼。
一時的に城北国民学校を間借りして授業継続。
1947年(S22)、④広沢町(現在地)に移転します。

浜松高等女学校が転出した跡地に中部中が設立され、生徒数増加にともない1957年(S32)蜆塚教場(分校)ができます.。
3年後に蜆塚教場が分離し、蜆塚中学校の誕生につながります。
ここまで書いた理由を念のため書きますが、蜆中はましまろで言うところの「剣道をやった場所」だからです。


ここまでの浜松高等女学校の流れはわかりやすかったのですが、次の市立女子商業の流れがとても分かりにくいです。

M44~T12の間のどこかで、前身の商工補習学校が設立されます。
1923年(T12)、商工補習学校を引き継いで市立浜松女子商業実践学校が設立されます。
昭和になり、市立浜松商業、市立浜松工業とともに統合され、市立浜松実業学校となり、⑤元城小内に併設されます。
ただし、この3校は統合されたのではなく、姉妹校のような扱いだった可能性があります。

1945年(S20)、併設されていた元城国民学校ともども戦災により全焼。
翌年、広沢国民学校に一時的に併設されます(戦災による仮設は図から省略)。

1948年(S23)、④浜松市立浜松高等女学校と⑤浜松市立女子商業学校が合併し、現在の④浜松市立高等学校となります。

そして2005年に共学化、という感じです。

歴史ある学校は、どんどん郊外に移転していますね。

【地図的古今浜松】西遠女子学園

だいぶ落ち着いてきた感ありますね、コロナ騒動。
五味八珍は営業再開していますし、さわやかも明日から大部分の店舗が再開するようです。

とはいえ、東京在住の私はいまだ浜松に行ける状況ではありません。
ということで今回も【地図的古今浜松】シリーズです。
第3弾は、今ではめずらしい女子高の西遠女子学園を取り上げます。

『西遠』の読み方ですが、いままでずっと『いえん』だと思っていました。
正しくは『いえん』なんですね。。。

移転履歴はこんな感じです↓
20200520西遠01
①平田町(なめだちょう)から現在の②佐藤町に移転しています。シンプルですね。

続いて沿革。
1892年(M25)、西遠女子の源流の浜松女塾が開設されます。
ここは裁縫と手芸を教えることを目的としていたようです。
残念ながら設置された場所がわかりません。
平田町ではないかも。

1906年(M39)、私立女子高等技芸学校が①平田町に開設
20200520西遠03
(左:1917年、右:現在)

1911年(M44)、私立浜松実科高等女学校に改称
20200520西遠02
(1918年の地図。實(実)科女学校)

1919年(T8)、浜松淑徳女学校に改称
1920年(T9)、西遠高等女学校を併設
ここから普通科が始まります。

1923年(T12)、西遠高等女学校が②佐藤町へ移転。ここから
平田町には淑徳女学校、
佐藤町には西遠高等女学校が並立することになります。
20200520西遠04
(1930年の鳥瞰図)

1944年(S19)1月、淑徳女学校は浜松淑徳女子商業学校と改称(文部省指示)
1945年(S20)4月、淑徳女子商業は佐藤町の西遠高等女学校内に移転(平田町からの疎開と全校舎の除去を命令されて)
その後、戦災により平田町の校舎は全焼。

戦後、おそらく旧校名の淑徳女学校に戻していると思われます。

1948年(S23)、西遠高等女学校は現在の静岡県西遠女子学園高等学校に改称
1949年(S24)3月、西遠女子学園内に移転していた淑徳女学校が閉校

という感じのようです。
間違えている可能性もあるので、ご指摘あればコメント欄にお願いします。
また、都度修正入れていきたいと思います。

【地図的古今浜松】大平台高校

前回に続いて【地図的古今浜松】シリーズ2回目は、十数年前に佐鳴湖西側に広がる大平台にできた大平台高校です。
沿道からは温室などが見えたので農業系の学校のように思っていましたが、校名に『農』がついていないので、普通科だけかな?とも思っていました。
浜松の方はご存じなのでしょうが、大平台高校は農業課程もあるようです。
詳細は大平台高のHPをご確認ください。

さて、大平台高の移転履歴は以下のようになります。
200506大平台01
地図は90度右に回しています(右が北側)。

一瞬「なんやこれ?」と思われるかもしれませんが、説明していきます。

大平台高校の始まりは、
1897年(明治30)、住吉に設立された①『静岡県浜名郡蚕業学校』です。
かいこに特化している学校だったのは驚きです。
(もしかしたら設立場所は住吉ではないかも)

その後、時代とともに校名は
 静岡県浜名郡立蚕業学校
 静岡県立蚕業学校
 静岡県立浜松農蚕学校
 静岡県立浜松農業高等学校
 静岡県立浜松農工高等学校
と変わっていきました。
蚕業→農業→農業+工業 といった感じで内容を増やしていったというところでしょうか。

そして1964年(昭和39)、工業課程と農業課程が分かれます。
工業課程はそのまま残り『静岡県立浜松城北工業高等学校』
農業課程は都田に移り②『静岡県立農業経営高等学校』
となりました。
立地は都田南小のすぐ東側、現在はスズキの工場になっています。
200506大平台03
左:現在 右:平成2年

翌年(1965年)、城北工業高校内に女子普通科の『昼間二部定時制課程』ができます。
これが1968年(昭和43)に分離、三和町に移転して③『静岡県立浜松城南高等学校』となりました。
立地は、ヤマハ天竜工場の南側にある浜松修学舎のグラウンドになっているところです。
200506大平台02
城南高校の名前の由来はどこから来ているんでしょうか。
浜松城基準だと、南ではなくほぼ真東。
前身の城北に対しての城南ということ?
それとも、北側に(浜松城とは別の)城があった?

2006年(平成18)に②『静岡県立農業経営高等学校』と③『静岡県立浜松城南高等学校』が合併し、大平台へ移転して④『静岡県立浜松大平台高等学校』となりました。
元々はひとつの学校がら分離した二つの学校が、またひとつになった、ということですね。

時代に合わせて姿を変えてきた高校の一例といえるでしょう。

【地図的古今浜松】浜商

浜松の学校の沿革を見ていると、頻繁に名前が変わったり、移転したりしています。
古い地図とかみると、昔はこんなところにあったんだ!みたいな気づきがありました。
そこで、地図的(視覚的)な沿革をたどってみたいと思います。

題して【地図的古今浜松】シリーズ。
*急な名称の変更の可能性があります
*第1回で終わるかもしれません

さて、記念すべき第1回は伸姉が通っている設定の浜商こと「静岡県立浜松商業高等学校」。
現在は文丘町にありますが、浜商HPで沿革を見ると、

①明治32年(1899年):元城齢松寺境内に開設
②明治36年(1903年):三組町に移転
③昭和11年(1936年):現在地に移転

となっています。
古い地図などで確認した結果、以下のような配置でした。
200431浜商01

まず①の齢松寺。
現在の齢松寺は中沢町の北の端にありますが、当時は浜松城の本丸跡にありました。
具体的には天守門の東側、ましまろOVAでおなじみの「若き日の家康像」があるあたりです。
ここに浜松町立浜松商業学校として開設されました。
200431浜商04a
この図によれば、南北に長い建物が本丸跡の中でも東側に位置していたことがわかります。
ちなみに、齢松寺も元々ここにあったわけではなく、1894年(明治27)に鍛治町(資料によっては後道:現在の千歳町)からここに移転してきて(おそらく都市計画のため)、さらに1965年(昭和40)に中沢町への移転が決まり(都市計画のため)現在地に移転しています。
ちなみにちなみに、後道は「うしろみち」と読み、東海道の裏道という意味だそうです。

4年後、②の三組町に移転します。
場所としては秋葉神社のすぐ北側、現在は空き地となっていて、10年くらい前までは浜松気象観測所がありました。
新旧地図の比較↓
200431浜商02
左:大正6年 右:現在
当時、秋葉神社の北側には道路がなかったんですね。
この道路は浜商転出後に通されたようです。

浜商が移転してくる前の明治23年ころは茶畑だった模様。
移転10年後くらいの敷地はこんな感じ↓
200431浜商1918T7
1918年(大正7年)です。

転出前の1931年(昭和6年)の敷地はこんな感じ↓
200431浜商1931S6
ラフなので何とも言えない部分がありますが、北西側が広くなっているように見えます。
浜商転出後の地図を見ても、おおむねこの形になっています。
おそらく、1918年から1931年の間で、↓写真の水色枠部分が広げられたものと思われます。
200431浜商03

そして昭和11年に③の現在地に移転しています。
こちらもそれ以前は茶畑。

戦災で校舎が全焼し、2年間ほど陸軍飛行学校跡にて授業を行っていたようです。
西山町とのことなので、おそらく現在の浜松基地のどこかだと思います(雑)。

(以下5/6追記)
やはり現在の浜松基地の一角らしいです。
浜松市史四の108ページ付近に、
//////////
 浜松第二工業学校は焼け跡で野天教育や林間教育をしていたが、昭和二十年十二月十七日から浜名郡神久呂村の浜松陸軍飛行学校残存建物内(今の航空自衛隊浜松基地)で授業を開始、翌二十一年三月二十二日に学校名を浜松第二工業学校から静岡県立浜松商業学校と旧に復した。現在地に新校舎が落成したのは昭和二十二年十二月二十二日であった。
//////////
との記載があります。
昭和19年から2年間ほど、校名が『浜松第二工業学校』となり、機械科・金属工業科・電気通信科が設置なっていたみたいです。
商業科は不要ってことだったらしいです。。。
(追記ここまで)

いやー地図っていいもんですね!
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